今回の研究成果は、日本色彩学会 令和4年度研究会大会(2022年11月26~27日・オンライン開催)にて発表しました。
<背景>
花王は、2019年よりKazu Hiro氏との共同研究を開始し、価値観や生き方がにじみ出るような“個性が輝く顔”の魅力、さらに本物と見まごうようなリアルな肌の色彩や質感を実現する理由といった、本質的でありつつもサイエンスの視点からだけではアプローチすることが難しい問いを探求してきました。これまでに、Kazu Hiro氏が制作したオードリー・ヘプバーンの二体の彫像の表情分析の結果から、彫像中に複数の表情を共存させることで“個性が輝く顔”が表現されていること、そして彫像を見る人は多面的に変化して見える表情の中からさまざまな内面印象を感じ取っていることを報告しています*1。
今回はさらに、本物らしく見える肌にとって重要な視覚的特徴を、Kazu Hiro氏により作製された肌サンプルの表面特徴と光学特性を分析することで探りました。
*1 2021年12月20日 花王研究レポート
https://www.kao.com/jp/corporate/news/rd/2021/20211220-001/
Art × Science : 顔プロジェクト 表情を通して伝わるその人らしさ ~Kazu Hiro氏制作によるオードリー・ヘプバーン彫像の分析~
<Kazu Hiro氏による彫像の肌の制作>
Kazu Hiro氏は実物の2倍サイズの粘土彫刻を作り、それを型にとってシリコーンの顔を仕上げていきます。肌のテクスチャー(凹凸)は彫刻の段階で作ります。さまざまな形状の針金、猫の毛を整えるブラシや指サックなどを巧みに使い、丸や縦長などの何万個もの毛穴、毛穴と毛穴を繋ぐ小さなシワを表現します。その後、人間の肌の色や質感はシリコーンの顔に色を重ねて再現します。静脈の青、毛細血管の赤、メラニンの色を想定した黄色と茶色の4色を、エアブラシを使って細かく調整しながらのせていきました*2。
肌の質感の表現方法について、当時Kazu Hiro氏は、「肌は層状の構造をしているので。それを完璧にコピーするとなるとすごく時間がかかるし、コピーしきれない。そこで肌をよく観察すると、ここにこの色がのっているといった様子が見えてくる。それを分解し、単純化する。つまり、色を重ねていく過程で、そのパーツを肌らしく見えるように組み合わせることで、肌らしい質感を表現する。」と話していました。
*2 花王 Art × Science : 顔プロジェクト 制作レポート
②オードリー・ヘプバーンの粘土彫刻の完成 緻密な設計に魅力的な表情を付加
https://www.kao.com/jp/corporate/news/rd/2020/20201127-002/
③シリコーンの顔に、4つの色を重ねて肌の色を表現
https://www.kao.com/jp/corporate/news/rd/2020/20201204-001/
<肌表面の形状分析 ~凹凸形状と塗装状態>
今回の分析は、彫像そのものではなく、同じ手順で作製された肌サンプルを使用し、表面の微細形状や色材の付着状態をデジタルマイクロスコープで観察しました(図1)。
その結果、肌サンプルの表面には、実際の肌に特有のキメなどの構造とは異なる形状の微細な凹凸が見られた一方で、見る角度や照明の角度を変えると、凹凸感や光沢感の変化の仕方が、実際の肌と同じ傾向にあることがわかりました。さらに興味深いことに、Kazu Hiro氏がサンプル表面に色材を意図的に不均一に付着させた状態は、毛細血管のように見える部分があることも確認できました。
これらの微細な凹凸形状や色材の付着状態は、彫像を鑑賞する際にはほぼ視認できません。しかし、こういった構造が施されていることによって、肌特有のムラの感じや角度によって変化する質感が、鑑賞する人にリアルな肌として効果的に受け取られると考えられます。
<肌の質感に関わる光学特性 ~半透明性と分光反射特性>
人の肌には半透明性があり、光が当たると、その光の一部は肌を透過し、肌内部で散乱・吸収され、その後肌の外に出ていきます。そこで今回、肌サンプルが人の肌と同様の半透明性を持っているのかを、花王が開発したエッジロス法*3を用いて分析しました。この結果、Kazu Hiro氏による肌サンプルは、長波長ほど半透明性が高いといった人の肌で見られる性質が認められました。さらに、人の肌特有の半透明性によって生じる、陰影部分が赤く色づいて見える“internal color bleeding”*4と類似した現象が見られることも確認できました(図2)。
これは、彫像の素材が半透明性のある着色したシリコーン樹脂であることと、表面の着色に用いられた色材が生み出す光吸収と光散乱とのバランスによって再現されたものと考えられます。
さらに、分光反射率測定器とハイパースペクトラルイメージングセンサを用いて、波長ごとの光の反射・吸収の特徴を計測しました。その結果、人の肌で見られる血液中のオキシヘモグロビンに由来する特徴的なピークは見られないものの、黄色から暖色よりの光に該当する590nmよりも長い波長において、血管のような模様が見えるといった分光特徴が確認できました。
今回分析した肌サンプルは、肉眼ではわからないような半透明性、肌内部の分光反射特性までも、人の肌で見られる傾向と類似していることが明らかになり、これが本物らしい肌の見え方に寄与していることが推測できました。
<まとめ>
本取り組みでは、芸術作品の表現を科学的に分析することで、リアルな肌を再現するために必要な視覚的特徴を明らかにすることをめざしました。今回の分析により、Kazu Hiro氏による彫像は、実際の肌とは異なる素材で構成されているにもかかわらず、人が実際の肌や顔を見たときに感じる肌らしさやその人らしさを感じとるための印象の要素が効率的に表現されていることがわかりました。具体的には、光の当たり方によって変化して見える微細な凹凸や、半透明性により生じる影の色づき、肌から透けて見える血管の色ムラなどです。
今回の共同研究で得られた知見を、今後は、生き生きとした肌を実現する技術、さらに個々の魅力が輝く顔を表現する方法の開発に生かしていきます。
*3 edge-loss method::光の波長ごとに半透明性を測定できる方法
K. Yoshida, et al., “Simple and effective method for measuring translucency using edge loss: optimization of measurement onditions and applications for skin”, J. Biomed. Opt. 16, 117003. (2011) doi:10.1117/1.3646208
K. Yoshida, “Derivation of absorption coefficient and reduced scattering coefficient with edge-loss method and comparison with video reflectometry method”, Optical Review 23, (2016) doi:10.1007/s10043-016-0237-3
*4 H.W. Jensenらによる、人の肌特有の半透明性によって生じる、陰影部分が赤く色づいて見える現象。 H.W. Jensen, et al.“A practical model for subsurface light transport”, Proc. Siggraph 2001, pp. 511-518, 2001
*本彫像は、オードリー・ヘプバーンを忠実に再現したものではなく、アーティストの解釈によって作られています。